2015年6月15日月曜日

南相馬ボランティア 10日目

こんにちは小酒井です。6月6日は外作業ではなく関西から来た団体さんと南相馬からいわき市までの視察に同行してきました。

6月2日にも浪江町の視察に行ったんですが、今回はまた違う場所を見えれるという事で、急遽外作業を変更して行かせてもらいました。


小高地区の仮置き場にはものすごい量がありました。



希望の牧場に寄りました。この地区は酪農されている方が多かったんですが、原発事故により人が住めなくなり、当時の政府から動物たちを殺処分するように命令された。しかし、それではあんまりだというで希望の牧場を立ち上げて今も牛を飼い続けている。放射能の影響を受け続けて生きているのは、この希望の牧場だけだそうです。中には毛が抜けたり斑点が出たりする牛もいるそうです。


小高の町は、まだ震災からの復興があまり進んでいなかったです。ここは津波の被害がなかったにもかかわらず放射能があることで町に人が住めなくなっているんです。町には入れるんですが、泊まってはダメなんです。先日の福島民報には小高の帰宅困難の家の中で腐乱の死体が見つかったそうです。死因はわかりませんが、このようなニュースもなかなか全国には上ってきません。


小高駅前です。取り残された自転車がありました。


薬師堂観音に観光にも行ってきました。福島は観光もありました。


大悲山の石仏は薬師堂石仏で、これは東北地方で最大、最古のものです。


震災遺構として残された津波に流されたパトカーです。震災当時、津波が来るその時まで市民に対して警告をしていた為に津波にのまれてしまいました。もちろん乗車していた警察官の2人は亡くなってしまいました。


富岡駅はもうすでに取り壊されていました。奥の白い建物は、焼却炉にがれきを持って行く前にゴミの分別したり、あるいわ粉砕して小さくしているものです。富岡町は最近になってようやく一般の除染活動が開始され、いきなり黒いトン袋がどんどん現れたと思ったら、あれよあれよという感じで町中が黒いトン袋だらけになったそうです。あと、この富岡には低レベル線量の汚染物質の永久保存場所となっています。



津波の凄さがわかる写真です。津波は22メートルもあったそうで、写真に写るローソク岩がなくなり、家の1階あたりまで波が襲ってきたそうです。


富岡の夜ノ森地区は桜並木が名所になっていましたが、事故後閑散としていました。左の写真で、信号機の奥はバリケードがつくられ、ガードマンが立っていました。帰宅困難地区で許可がないと入れません。右の写真はトラックより奥に見えるガードレールは仮設のバリケードとして、その奥からは帰宅困難地域です。ですが、手前の家からは好きな時に日中は帰宅できるという地点です。放射線量はそんなに変わらないのに、原発からの距離と道によって線引きされた結果です。保障の形も違いがあります。この町は現在、除染作業員とトラックの行き交う音が響くだけになってしまいました。そして、線量は事故後より減ったんですが、まだ高いところです。今日で0,9マイクロシーベルトでした。町の入り口に支所があり防護服をもらえるんですが、今となっては着る人などほとんどいないそうです。慣れが出てきてみんな大丈夫と思っているのか、放射能は目に見えるものではないので人は慣れてしまう怖さがあると感じました。


これが今のJ-VILLAGEです。ここは東電が資金を出しスポーツ選手育成や支援をする施設として建てられました。今は、サッカーコートを駐車場にしたり福島第一原子力発電所の作業員の仮設住宅になっていました。



浜風商店街はあまり知られていませんが、ここも津波被害が大きかった地域です。



沿岸部は津波の被害からの復興が少しずつ進んできていて復興住宅も徐々に建ち始めていました。しかし、一面更地になっているのを見ると、津波の恐ろしさが実感できます。


帰りの夕日は綺麗で感慨深い景色でした。こんなにも綺麗な景色なのに見えない恐怖もあり、また、見えないが為に慣れてしまう。原発事故後の保障も道を隔てただけで変わる。家に帰れる帰れないがあり、元の家に戻るか未だに見通しが立てられない。原発がもたらす負の部分はとてつもない影響を与えます。どこがクリーンエネルギーなのか。これ以上原発推進政策はやめるべきと強く思った帰り道でした。

以上。

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