2014年9月7日日曜日

被災地ボランティア2014夏4日目

文責 宮崎公立大学:むっちゃん
昨夜から福島県南相馬市入りし、今朝は学生4人と小玉代表でラジオ体操に行ってきました。
仮設住宅に住んでいる方が集まって、ラジオ体操をされているそうです。
アースウォーカーズメンバーは、参加者の前に立って体操をしました!
皆さんとラジオ体操をして、清々しい1日をスタートできました。
帰り際に、「宮崎から来てくれたのね。お母さんに行けって言われたの?
福島には行くなって言われなかった?」と参加者の方に聞かれました。
私は、この質問に衝撃を受けました。
福島の方がそのように感じていること、そして、私たちがそのように考えさせてしまっている
現実があること。
冗談めかした口調の裏には、私たちの想像することのできないくらいの悲しさや怒り、
表現できない感情が隠されているように感じました。
私たちは、そのことに向き合わないといけないと思います。
大切なことに気づかせていただき、ありがとうございました。
明日も一緒にラジオ体操しましょうね。




文責 宮崎公立大学:田中亮佑
分断統治論。今日、聞いたお話のなかで、賠償金などのお金が大量に住民に配られることで、
住民同士が金額などを巡って相手を攻撃してしまうという現状があることを知った。

住民同士に溝ができることで上への批判をさけるためであるという。
また、漁師は原発事故の影響を受けているため、収入の全額が賠償されている。

そのため、漁に出るのは週に1回の試験出荷のときだけで、後継者の育成が遅れると懸念されている。
また、漁に出ない漁師たちの、誇りや生きがいが欠落、欠如がしてしまうことも心配されているという。

この話を聞いて、福島の漁師たちは放射能の影響で自分たちの仕事場である海を奪われて、
やり場のない気持ちであるとは思うが、支援のシステムを十分に考慮していかなければならないと感じた。




文責 宮崎大学:川島みさき
今日は様々な方のお話を伺う機会がたくさんありました。
その中でも特に印象に残っているのが、仮設住宅で80代の男性とお話したことです。
その方は自分のせいで大切な家族を亡くした、と自分を責めて深い悲しみを抱いていた方ですが、お孫さんや奥さんの話をされる中で時折見せる笑顔に私自身も笑顔になりました。
「自分は海の近くに住んでいたから、ひ孫に『うみじいちゃん』と呼ばれるんだ」
「ばあさんとは結婚して67年になるが、一度も喧嘩したことないんだ」
と少し照れくさそうに言うお顔がとても素敵でした。
午後は、農民連の方々の視察に同行し、浪江町まで行ってきました。
浪江町に入ると、人気もなく見渡す限りの草地が広がっていました。さらに原発に近い警戒区域内まで行くと、かつての田んぼに乗り上げた車や船、瓦礫がまだ取り残されていました。

そして、原発から10kmくらいの地域なのに0.1μSv/hの放射線量で福島市の半分以下の放射線量で、あらためて同心円で線引きすることの難しさを感じました。
福島第一原発がいつ爆発してもおかしくない状況が続いている中、
瓦礫を撤去し、除染作業をおこなっている様子を見て、先に解決すべきことがまだあるのではないかと感じました。
まだまだ震災の爪痕が残る被災地。一日でも早くよい方向に進んでほしいです。





文責 宮崎大学:遠矢聖仁
今日、震災に関わる濃い内容のお話をたくさん聞かせて頂いた。
まず印象的だったのは、震災が起こってからこれまでに、59回も引っ越しをされた方がいるということ。
子どもたちへの放射能の影響を考えて避難し、また今度はその避難先での差別などにより馴染めず元の地へ。
この数は被災地の中でも稀なのだろうが、そこまでいかなくても確実に引っ越しの件数は増えているのだろう。

子どもは学生ならば転校ということになる。   
転校を繰り返す事は、友達関係を気づくための土台となる地域や学校に根を張る前にそこから移動させてしまうものだと思う。
そういった意味で、原発の事故は、本来なら子どもたちが長期間かけて築き上げる
共通の思い出を分かち合える友情関係を切り離してしまうことになると思った。

また、寺内仮設では震災当時の状況を写真を交えながら聞かせていただいた。
津波到達地点に数メートル入っていたために、大勢の方が犠牲になった老人ホームの話。
地震の直後、誰が言うでもなく高台に人が集まっていたため、
そこに向かい雑談していたら、目の前で自分がさっきまでいた集落が津波に呑み込まれてしまった話。

地震後、先に避難していた自分を探すために家にまで戻り津波に呑まれ、亡くなってしまわれた娘さんを持つおじいちゃん。娘が死んだのは自分のせいだと悔やみ、1年間は前を向いて歩かなかったという。
しかしそのおじいちゃんの立ち直るきっかけとなったのは、
「娘さんはきっと、おじいちゃんに生きて欲しかったんだと思うよ」
という施設の方のことば。

僕は唇を噛みしめて我慢しても、こぼれる涙が止まらなかった。
つらい。悲しい。そんな言葉では表せない程に残酷な現実があって、
同時にそれを乗り越えていく人たちの姿もそこにはあった。

今日の1日は、濃い内容のお話がたくさん過ぎて自分の中で整理がつかないままだし、
今ほど自分の表現力のなさを悔やむこともないが、
少しずつでも消化しながら、宮崎に戻ったとき自分の言葉で話せるようにしたいと思う。



0 件のコメント:

コメントを投稿