2014年5月16日金曜日

宮崎大でも、支援の輪 拡大中‼


文責 宮崎大2年 コガケイ

516日、宮崎大図書館にて、Earth Walkersボランティア活動報告会が開催されました。

新入生歓迎のチラシや報告会の宣伝ビラなどで、新たにアースウォーカーズの活動を知った12年生を含む、20人の学生らが参加しました!

自分は報告会に参加するのは6度目で常連のようになっていますが、
今回は、東日本大震災から3年という年月が経ち、この事実が忘れられていく中で、
未だに課題が残る福島の現状を直接見て来られた学生やNPOの方の話を通して、新たに考えさせられることが多くありました。

まず、宮大の平井さんが、今回行った福島第一原発から20㎞圏内の地域と、震災直後の2012年に一度行った宮城県の光景がほとんど同じであった。と話されていたことが深く心に残りました。

報道では伝わってこない福島の復興の遅れを改めて感じ、もっと言えば、同じ日本また地球でこれだけ急速に日々が過ぎていくのに、ここだけ時間が止まっているように感じさせられました。

そして、公立大のマルタさんが、福島に住む人でもマスコミを信用して放射能を心配しない人、反対に放射能に不安を感じる人に分かれており、その溝やギャップが地域間のコミュニティの崩壊を招く。といった問題を起こしている、と言われていたことも非常に印象的でした。

学校や商店等の建物を直して新たな街を再建するといった物理的な事は短時間で解決するかもしれないけれど、先ほど述べたような精神的な問題はこれからも出てくるだろうから、我々が長期的にサポートを続けていくことがどれだけ大切か。ということを感じさせられました。

最後に、宮大の時枝さんが、福島のような所が同じ日本にあるということを忘れたくない。そして、そのことを一人でも多くの人と考えて向き合っていきたい。と言われていました。
このことは、これから支援を続けていく上で我々が最も大切にしていくべき理念であると思いました。

最後になりますが、原発の問題に関しても、Earth Walkersの活動の中で実際に現地へ行ったり、宮崎からできる支援などを通して、これから、本当に正しいことを考えて学べる機会にしていきたいとも思いました。

そして、何より嬉しかったのは、さらに興味を持った1年生2年生がまた大勢参加してくれたことです。
これから、さらに支援の輪がどんどん広がっていきそうですね。
以上




追伸:小玉直也
報告会後に感想交流をしたのですが、一年生たちも口々に被災地の現状を知って決意を語ってくれましたので少しだけ紹介します。

前回の報告会やミーティングに参加して、今日も友達と5人で来る予定でしたが、実習で友人は来れませんでした。神戸出身なので子どもの頃から震災の話を聞いて来たので、今回の福島の話もいろんな人に知って欲しいと思うし自分も知りたいし、広げて行きたい。アースウォーカーズの活動に積極的に参加したいです(農学部1年まりっぺ)

福島の原発事故は中3の時で記憶もあまり無く、ニュースでも取り上げられないので、もう落ち着いて綺麗に元通りになっていると思っていたが、今日、まだまだ復興が進んでないし、放射能の影響で大変な実態をしれて良かったです。これからも、いろいろ知って行きたいです(教育文化学部1年)

今日の報告会で自分が被災地事を知っていた「つもり」になっていた事に気付かされました。メディアからの情報が全てだと思っていた自分が恥ずかしい気持ちになりました。「百聞は一見に如かず」なので、ぜひ現地に足を運び自分の目で見て主張出来るようになりたいと思いました(教育文化学部2年)

初めて参加しました。私たちが満喫したGWに、先輩方は現地に行って多くの事を行動し感じた話を聞き感動しました。東北はもう復旧していると思っていたけど、現地の状況はそうではないと実感しました。放射能の事もしっかり勉強して4年のうちに被災地ボランティアに行きたいと思いました。アースウォーカーズの活動を通して頑張りたいです(教育文化1年)

ほか、素敵な感想が寄せられました。
部長の明日香さんが、みなさんと一緒に、出来る人が、出来る時に、出来る事をしましょうと呼びかけてアースウォーカーズの活動に参加を呼びかけて終了しました。
素敵な若者が一歩を踏み出し成長して行く姿はたのもしいですね。

私もあらためて、引き続き頑張ります。

2014年5月5日月曜日

福島支援4日目は浪江から郡山へ

文責:まるた
今日は朝から浪江町の原発に一番近い所から5kmまで、警戒区域に入るため許可を取る必要のある地域まで行ってきました。
町は、止まっていました。
あの日あの時テレビで見た風景、写真、映像そのものが目の前にありました。
もちろん海水は引いていましたが、海水が引いた後そのまま時は止まっていました。

小高駅の線路は荒れていて、駅の自転車は当時のまま放置、地震時倒れた家もそのまま。
津波の被害にあった地域で田んぼの砂利道にぽつんとゲームのコントローラーがあるのが目に入りました。
オレンジの、任天堂のやつでした。
原発が見える場所にも行きました。
映像でしか見た事が無いあれです。肉眼で確認できました。
ジョギングで5kmなんてすぐです。
そこに私たちはいました。
直接と間接の違いが自分の中で絶対的な物になりました。
同行をお願いした三浦さんの話は優しいトーンであるものの、ずぶりずぶりと入り込んでくるものでした。

「原発は古い技術」と言われた時、「原発は最新技術」だと思っていた自分が居なくなりました。
使用済燃料を海溝に捨てる事を前提に原発は作られました。日本では地中に埋めるつもりだったようで…。
今ではそんな事考えられません。
原発はお湯を沸かす機械です。ただお湯を沸かすというこの「機械」は、リスクが高すぎる。
それを考えると、もう答えは一つですよね。
原発は、いりません。

午後は「来んねキャンプ」で宮崎にやってきた福島大学生2名、福島の親子と再会!

みんな覚えているか心配だったのですが、ありがとう、覚えていてくれたみたいです(^^)
あれからみんな成長していました。当時おぼつかない口調だった子達がペラペラとしゃべっていたのをみて内心感涙のまるた…!
小学校に上がった子もなんだか自信がついてるようでこっちも嬉しい!女の子はみんなアイドルに成長!カメラ目線はバッチリよ♡

お母さんたちもお出迎えありがとうございました。再会できて本当に本当に本当に嬉しかったです!
夕食は、石川の方へ保養に行っていた親子の所へおじゃましました。ごちそうさまでした!
明日は福島大学の災ボラを訪れる予定です。明日も頑張ろう!



文責:明日
今日は小高や浪江の視察に行き、午後は第三回の来んねキャンプに参加した親子と再会するというような一日でした。
午前中、南相馬市小高区から浪江町の原発から5キロくらいあたりまでを案内してもらいました。
1年半前初めて小高に来たとき、まだこんなにも津波が来てから進んでいない地があるのかと衝撃を受けました。

そのときと同じような、誰もいないまち、流された車や船、1か所に集められただけの”がれき”の山、、、などの光景が目に入ってきます。
やっぱりまだまだこういうところもあるよなと改めて、伝えていかなければならないと感じました。
そして、ここを片付けていったとき、人が戻ってきて暮らせる場所になるのか、今日ここに来た私はこれから何ができるのか、なども考えました。
原発や放射能のことが絡むと本当に難しいことも多々あり、頭と心が痛くなりますが、伝える事・知る事・考える事を多くの人と一緒にやっていきたいのと同時に、苦しい思いをしている人や困っている人がいればできることがあれば何かできるといいなと思います。
ヘビーな午前のあとは、「第三回福島の子どもたち宮崎に来んねキャンプ!」に参加した親子9組中の5組が集まってくれて、再会して楽しいひと時を過ごしました。
3か月という月日は子どもたちを成長させていて、驚くのと同時に嬉しくもなりました。
子どもたちには元気にまっすぐ、そして幸せになってほしいなと思います。
子どもたちがおもちゃで遊んでいるなか、お母さんたち同士の会話では「どこどこの保養は~・・・」とか「どこどこは線量が~・・・」などの話もたくさん出ていました。


まだ出会っていない人たち含めて、必要とされている限り保養の受け入れはやっていきたいし、その他の面でもできることがあればサポートできればなと思います。
そのためにも、今回のキャンプを一緒につくってくださった方々への報告やお礼などしっかりやる必要があり、再度気を引き締めなければと感じました。

こっちではあまりに衝撃的な現実を目に耳にすることがたくさんあり、考えすぎて暗くなることもしばしばですが、嬉しい再会に元気をもらえました。










文責 たか
今日は、午前中、20km~5km圏内にある南相馬市小高区と浪江町にいきました。今日見に行った場所は、実際に津波の被害があった地域で、見た限りでは田んぼや畑に車や船、ガレキ等がありました。放射能の影響で立ち入りが困難であったため撤去活動が遅れているらしいです。 

11月ぐらいまでは、津波で来た水や液状化で発生した水で辺り一面が水浸しだったらしいです。今日見ても、所々に水が残っており水が引いている場所は草がとても生えていました。

浪江町の市内部分は、地震の影響で家屋が倒壊している所が多々ありまだ、テープで進入禁止になっているだけで手が付けられていなかったです。
また、車で走っていると、何かのイベントがあったのでしょうか、開催期間が3月9日から3月13日までになっていてここは、浪江町を始め原発周辺の地域は、まだ時間が止まっているのだなと感じました。また、今回は、立ち入り禁止区域の近くまで行って第一原発を見る事ができました。

津波被害と放射能被害両方の影響を受けている町。東日本大震災の発生から手を付ける事が出来ず、ほとんどの方が浪江町に戻らないらしいです。
今日は、浪江町に住んでいた方と一緒に行き、説明を受けながら行動しました。ちょっと驚いたのは、津波被害を受け警戒区域にいる人たちに対して、半壊なら補償金が入って来るらしいのですが、家ごと流されて土地だけしかない家は、一銭も補償金が入って来ないらしいです。この事については正直、「えっ」と思いました。この町の将来はどうなるのか?今後の動向が気になります。

午後は、来んねキャンプ時に、来られた家族5組11人と福島大学のすくな君、れい君と郡山で再会しました。みんな名前を覚えていてくれていて、ずっと子どもと遊んでいました。

気づいたら、4時間30分ぐらいたっていて、あっという間でした。お母さんたちともお話することができました。ある、お母さんには、「みんな近くに住んでいる感じがする」って言っていて、めっちゃ納得しました。福島と宮崎で距離は遠いですがいつも近くにいる人たちだなと思っています。
みんなに会えて本当に良かったです!!




文責:小玉直也
学生のみなさん、現場で見聞きして多くの事を感じたようでなによりです。
線量計を持って活動していくのですが、原発から5km地点で0.1μSv/hと福島市や郡山市の1/3程度でした。

しかし、20km圏内の地域で立ち入り制限がありゴーストタウン化している。
一方、そこより放射線量が3倍以上ある地域には子どもたちが住んでいて、安心、安全、放射能の影響は除染したのでないと言われる。
とても科学的な見地とは言いがたい。そこで不安に生活している方々への支援は出来る限り続けて行きたいと思いました。

今回、驚いたのは、宮崎で幼かった子どもたちが、食事の後、頑張って洗い物をしていたしーちゃん、りんちゃんの姿でした。
少しずつ、お姉さんに成長して行く姿をかいま見てうれしくなりました。
今回、宮崎に来てくれてありがとう。そして再会できる時間を皆さんあわせて作ってもらい感謝です。
また、会える日を楽しみにしています。

2014年5月4日日曜日

福島3日目は南相馬市と浪江町へ


たか
今日は、午前に庭の手入れ、午後に津波で使えなくなった物の処理や泥だしを行いました。
午前は、庭に落ちている木やビール瓶(ビール売っている店だったので)を袋に入れたり、木を切ったりしていると、現地の人が来て、被災者っていってもその家は犯罪者で自殺した人の家だからやる必要がない。と言われました。何事もなくすみましたが、正直、動揺しました。

午後は、小高駅前の家で作業を行いました。床下まであと数センチのとこまで浸水していたらしく、処理が必要な物はほとんど濡れていて且つ、苔が生えていたりしました。

休憩中にいろいろ震災当時のお話をお聞きしました。一番驚いたのは、津波の影響でライフラインが止まり、原発事故が起きたことは次の日の昼まで知らなかったらしいです。また、津波の影響で地下の水源が変わったらしく、急に水が出るようになっていたという話を聞いてビックリしました。
ボランティア後のお好み焼きはぶち美味かったです。広島の高校生が来て作ってくれたのですが、高校生でここまで来てやるのはすごいなと思いました。ちなみに、中学生のボランティアの過去にはいたそうです。
ボランティア後は20km圏内にある浪江町方面に行きました。途中の山道で線量を計ると14μsv以上の数値が出ました。写真でしか見たことがなかったので驚きが半分、3年以上経っているのにまだ、こんなに高いのかと感じました。
吉沢さんのお話は、牛について熱いものを感じ、震災後のことや取り組みについてのお話をお聞きした時、もうちょっとで泣きそうになりそうでした。
第三者の自分にとって何をすることが一番いいのか?福島にいると、いろいろ考えてしまいます。
無念にも自ら命を絶った酪農家の方の遺書が壁に書いてあったそうです。



マルタ
今日は、ボランティア2日目。今日はみんなバラバラの班に分かれて作業しました。
私は藤・竹伐採班で作業。
黙々と只ひたすら藤のつると戦いました。

午後は電動草刈機の初体験!
実は憧れていた電動草刈機。どんどん草を刈れるのが楽しくて仕方ありませんでした!
で・・・。
作業場は原町のとある山の斜面。山肌は線量が高いと昨日知っていたので、少し心配・・・。
休憩時に腰を下ろしたものの、そういえば、と腰を上げました。
ここで作業メンバーについて少し。
アースウォカーズのことを紹介したら、皆さんすごく興味をもって質問して下さいました。ありがとうございました!

作業が終わった後、浪江町へ近い南相馬市へ。原発からだいたい14km圏内の場所へ行ってきました。
線量が15~18μSv/hのホットスポットの存在、立ち入り禁止の柵で封鎖していた道路、廃墟と化した家々、衝撃の連続でした。

そんな所にある「希望の牧場」にて吉沢さんからお話を伺いました。
暗くなって、電気がつかない中、想いを語られる吉沢さんの姿に、その後しばらく何もしゃべれなくなってしまいました。

私は、ちゃんとした意味で福島の方達に寄り添えていたのでしょうか。
「寄り添う」意味の根底をもう一度考えようと思います。




あすか
 今日も南相馬市ボランティア活動センターでの活動でした。
今日は、センターに来るボランティアの人達が寝泊まりしていた無料宿泊施設の解体準備を行いました。
仮置き場がつくられるそうで、やむを得ず解体することになったそうです。

私が前回来た時もここに宿泊し夕飯を食べながら、活動した人達と交流した思い出の場所だったのと、常連のボランティアの方達にとっても大切な場所だっただろうなと思うと、残念でした。
施設内のふとんやたたみ等を運び出したり、施設に付け足した木材の手作りの柱や壁などをはずしたりしていきました。
なかなか進まない作業とゆくゆくは業者によって取り壊されることにもどかしさを感じながらも、感謝の気持ちを込めて片付けていきました。
目に見えて成果を実感出しにくいときでも、目的や目標を見失わないことは重要なことだと感じています。
今日の活動終わりには、松本センター長と会話をすることもできました。前回来たときから、熱い想いのセンター長のことをすごいなと思っていたので、嬉しい時間でした。
南相馬市ボランティア活動センターのモットーみたいなものに、「できる人が、できる時に、できる事をする。」という言葉があります。
ボランティアというのは、確かにそうだなと思わされます。
だから私も、行ける時は現地に行きますが、今いる場所でできる事をやっていきたいなと思います。

宿舎に帰る前に、小高と浪江の境にある希望の牧場さんにお邪魔し、高木さんと吉沢さんにお話を聴かせていただくことができました。
そこは、警戒区域内に取り残された被ばく牛の保護・飼育をしている方の牧場です。
餓死でも殺処分でもなく、牛を生かすという第三の道を選択し、牛とともに、原発を乗り越える社会を目指し、発信し続けていらっしゃいます。
生の言葉に、胸と目頭が熱くなりました。

お話を聴けて、もっとド真剣にこの社会に向き合い、考え、学ばなければならないと思いました。
そして、多くの人と一緒にそうできるように、私も行動していかなければならないとも思いました。



小玉
学生たちが日々、ボランティア体験や被災地のいろんな方の話を聞く中で、成長していく日々がたのもしいです。
宿泊しているカリタスジャパンには全国からのボランティアが宿泊していて、そこに宮崎のライフのパンさんからの差し入れを届けました。
多くのボランティアさんやベース長に喜んでもらいました。宮崎に来た際には、オススメのライフのパンをぜひどうぞ。

重ねて、ボランティアセンター長の松本さん、7年前の中越沖地震で宮崎大学や南九州大宅の学生らを連れて行った際に柏崎市のボランティアセンターでも受け入れを担当していて、再会を喜びながらの握手となりました。
宮崎大学の時枝さんも、1年半前にボランティアに来た際からの再会で盛り上がりました。

思い起こせば、2003年イラクで一緒だったメンバーと石巻で再会し、2005年スマトラ沖津波のボランティア出会った人と南三陸町で再会、そして1996年ロシアのナホトカ号の重油すくいのボラセンの方と二本松で再会したりと2011年はいろいろ再会しましたが、ここに来ての柏崎からの再会は本当に嬉しかった!!
覚えていただいた松本さんありがとうございます。

2014年5月3日土曜日

福島ボランティア2日目


文責:宮崎大:あすか
今日は南相馬市ボランティア活動センターでの活動でした。
今日の活動内容は、一時帰宅されている方達へのニーズ調査でした。

G.Wで帰ってきていらっしゃる方は多いのではないかという話もありましたが、一日かけて一件一件お宅を訪問して、お会いできた住民の方々は6、7件の方でした。
一人一人との会話の時間は短いものでしたが、印象的だったのは「ボランティアの人たちには助けてもらって」という声です。
私はその人のために直接は何も出来ていないはずなのに、「ありがとう」と言われます。
この言葉も、私がここに来ることができているのも、これまでずっと一生懸命な姿で活動してきた人たちがいたからこそなんじゃないかと思います。
だから私も私たちも、たった1人の態度やたった一回の言動で、今まで一生懸命やってこられた方達の想いを壊してしまわないように、そして今後、ボランティアに来る人たちのためにも誠実な態度でいなければならないなと身の引き締まるような気持ちになります。

今回1年8ヶ月ぶりに南相馬市小高区に来ましたが、まだまだ人手が必要なところも残されていると改めて感じました。
これからも私にできることを続けていきたいなと思います。




文責:たか
今日は、福島から南相馬市の小高地区に行ってボランティアを行いに行きました。小高に行く途中、飯館村を通過していると学校のグラウンドに汚染土を仮置きをしていてビックリしました。

南相馬では、自転車に乗って一時帰宅している方達にチラシを配る作業をおこなっていました。自転車で町中を走っていると、人の気配がなく、家の庭は草がぼうぼうに生えていて、その時初めて、住む事が出来ない町とはこういう所なんだと思いました。何軒かは、地元の方が帰って来ていて直接お話しすることまで出来ましたが、圧倒的にボランティアや消防、警察の人たちが多いかったです。

地元の方とのお話は、震災当時の話しや仮設住宅ぐらしの話し以外にも福島の桜や仕事の話し等震災以外の話しもできて、少しでも震災のことを紛らわせる事が出来たのかなって思います。お会いしたおばあちゃんやおじいちゃんは仮設住宅の暮らしは、ストレスが溜まると言っていました。おばあちゃんは、隣に住んでいる方とあまり仲良くなっていなく辛いと言っていました。

岩手や宮城では震災が起きる前の生活に向けての計画が立っていると思いますが、福島では放射能の影響で現段階では、不可能みたいです。津波の被害を受けた人の話しを聞くと、助かった人と亡くなった人の境界線はなく運が良いか悪いかの違いだったらしいです。
その方は、農家の方なのですが、田んぼや畑は土壌が汚染されているらしく、田んぼは使えないらしいです。もし、100Bq以下でもここではお米を買わないと言われたらしいです。現在、線量が低い野菜を作って野菜は自給自足を行っていると言っていました。野菜の中でも線量が高い野菜もあれば低い野菜もあってびっくりしました。

最後に、原発の事、数十年後はどうなっているのか、補助金で裕福な生活ができて震災前よりも稼いでいる人もいる事等、現地に行って自分の目で見て聞く事で、より確実な情報を得る事ができ、自分ががやるべき事はなんなのか?震災で被災された方達に何が出来るのか?これからを担って行く自分たちの世代はどういった事をして行くべきか?といったことを寝る時考えていましたが、とりあえず今自分に出来る事をやろうと思い明日に備えます。






文責:まるた
こんばんは。宮公大のまるたです。今日は南相馬市の方へボランティアに行ってまいりました。
目的地までは飯舘村を通過するという事で放射能測定しながら行ってきました。数値が福島市内より3倍に跳ね上がったのにはびっくりです。
南相馬市小高地区では、ボランティア募集のチラシ配りという事で、自転車で小高地区内を走り回りました。

20km圏内で警戒区域に指定されていたのですが、GWという事で、特別宿泊許可をもらった何人かの住民はそれぞれの家へ戻っていらっしゃいました。
その中で洋服屋さんのおじいちゃんの話が印象的でした。
その日その日、色んな事を感じながら生活をしていらっしゃるおじいちゃん。
目線は毎回何かを決意するように上下し、話を始める。
あの日からどう過ごしてきたか、今何を思っていらっしゃるか。
わたしは頷く事しか出来ませんでした。
最後は明るい話でお別れできたのが救いです。

原発から20km圏内にある小高地区は、当時は立入禁止区域でした。(いまは解除されています)
よって、住民は家を残したまま1年、2年もしくは3年ずっと戻っていません。
人がいない街というのは、これほど奇妙なものとは思いませんでした。
まるで神隠しにあったようで、異世界に来ているようで、おもちゃのお家の集合地域にポンと放り込まれたような感覚でした。
でも、かつてそこに人が住んでいました。
あの爆発だけで、色々な悪循環が生まれてしまいました。
家族の気持ちが離ればなれにならなかったはずです。

南相馬市民の間に軋轢は生じなかったはずです。
福島県内みんなで協力していこうという体制が、岩手や宮城のようにとれたはずです。
そしてそういった問題を生じさせてしまった責任を取っていかねばなりません。
その事をふまえて明日以降のボランティアを続けていこうと思います。
佐藤さんの話も印象的でした。
実際に津波の被害にあった家を見た時、話を聞いた時、やっと「怖い」と心の底から感じました。
やはり、テレビの映像はテレビの映像でしかないものです。

誰もいない荒れ果てた家ではためくカーテン、むき出しの家の土台、そえられた花…
リアルに自分の中に入ってきました。
明日もきっと濃い一日になるでしょう。
被害に遭われた方と同じ辛さを分かる事は出来ませんが、精一杯よりそうべく活動します。

2014年5月2日金曜日

GW学生ボランティア宮崎から福島へ


文責:宮崎大学4年 平井
 5月2日宮崎発大阪行きのフェリーに乗って出発!!
 今回、福島に行くのは、小玉さん、まるた、たか、あすかの4人!!
 長旅には、予想外がつきもの!!始まりは、フェリーに乗るのがギリギリで危うく陸路になりそうに。なんとか無事に乗ると、偶然、めぐみさんと合流!!
っということで、船旅は、5人でした。
 そして、5月3日。船を降りて、高速に乗るといきなり渋滞‥‥‥さすがに都会の渋滞には驚きました。だんだん、北上していくにしたがって渋滞は緩和されて来ましたが、
大阪~福島まで約800km。遠いですね。
 来んねキャンプの映像を見たり、みんなで話しながら日本海側の高速を北上していくと、ここで思わぬ出来事が!!
2月にあった福島の子どもたち来んねキャンプに参加されていた、押山さんが同じ高速内にいる事が判明!!連絡を取り合い、富山県の高岡PAで合流!反対車線だったので道路越しでしたが、押山夫妻とゆうた君に無事会えました。声は届きませんでしたが、手を振ったりしながら電話で話す事ができ元気な姿を見せ合う事が出来ました。
 その後は、福島に向かって車を走らせました。途中、フォッサマグナで有名な糸魚川を通過したり、日本海を見たりと有名どころもちょくちょく見ながら福島へ向かいました。
  そして、 福島市に21時頃到着しました。到着後は、来んねキャンプでお世話になった、福島大学のれい君も合流し宮崎県庁から福島県庁に出向中の吉岡さんと一緒に居酒屋に行きいろいろとお話をお聞きしました。吉岡さん達と別れると、市内で神さんと合流!!神さんが疲れていたのと、こちらの明日が早いということもあって少ししか話せませんでしたが、近況報告も交えながらがら話しをしました。

文責:宮崎公立大学2年 マルタ
 渋滞に巻き込まれながらようやく着いた初めての福島。本当に自然が豊かで人々も優しい素敵なところです。高速のおばちゃんに優しく迎えられて本当に嬉しかったです。山の方に入っていくと畑や田んぼがちらほら。ほんとにのどかでいい感じ。福島到着後、公立大で「現地の方の声」を担当してくださった半澤さんの所によって、放射線測定器をかりて来ました。測定器のスイッチをオンにし、地面から1M程離れた場所や庭の植え込み部分に近づけたりして測定しました。そこには0.1や0.3という数字が。初めて放射能というものを目視できたと実感した瞬間でした。福島に入って「本当に放射能ってあるの?」と疑っていた自分がいました。しかし、あるものはある。人が恐怖を抱きにくいものと毎日戦っている福島の方々がいます。不安に感じている方々がいます。それを自分に置き換えてみると、どうなのか。その答えを常に念頭に置きながら、福島で過ごそうと思います。

2014年5月1日木曜日

福島報告会 in 公立大

 5月1日、宮崎公立大学にて福島の報告会を行いました。平日の夕方にもかかわらず、熱い想いを持った方々が20名程集まってくれました。
中にはわざわざタクシーで来てくれたという産経大の学生も。

報告会では、現地のお話をSkypeによって聞く事が出来ました。
多くの学生が、まさか報告会で現地にいる方の生の声を聞く事が出来るとは思っていなかったようで、驚いていました。

三年経った今でも尚、洗濯物を外に干せない事実や処理の方法が未定な除染作業後の廃棄物など、大きな衝撃となったようです。

感想を紹介します
「学校のそばに放射性廃棄物を置いている光景に驚いた。子どもたちに影響がないか心配になった。処理の方法が決まってもいないのに原発をやっていておかしいと思う。」

「事故当時、ブルーシートで家中を覆って過ごした家族がいたこと…。衝撃的でした。」

「現地の方の声に耳を傾ける事の重要性に改めて気づいた報告会でした。」

報告会後は有志達とジョイフルへ。初参加の産経大・国際大の学生達と、宮大・公立大の学生達は熱い会話を交わす事が出来ました。今後が楽しみな報告会となりました。

5月半ばには、ゴールデンウィークに福島へ行った学生の報告会も計画するので、ブログを見ている方で、お時間がある方がいらっしゃったら、ぜひお越し下さい
(^^)

文責 まるた